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先週末、氏家さん
*1と京都・長岡京にある
大阪成蹊大学芸術学部にお邪魔して、デザイン学科の先生方とBlogなどインターネットのツールを教育カリキュラムに活用する可能性などについて、お話をして来ました。そのときのお話。
氏家さんから言われて改めて思ったのですが、京都の食べ物や飲み物はうまいです。何を改まってそんなことを思われるかもしれませんが、ここで言いたいのは「
稲垣先生に連れて行っていただいた京都御所近くにあるビストロ割烹Yaoyaの酒と肴がうまかった」とか「イノダコーヒ本店のビフカツサンドがうまかった」とか、そういう特別なものがうまいという話ではなく(いや、そりゃもう、どっちも本当にうまいんですけど)ごく普通に出てくるごく普通のものの水準が高いということです。たとえばですね、大学の教務課や研究室で出してくださったふつうに淹れた(にちがいない)ふつうのお茶やコーヒーがすごくうまいのです。
きっといいお茶の葉を使ってらっしゃるんだろうとか、山崎の近くの水がいいんだろうとか、そういうことは当然あるんでしょうが、それにしてもこんなに水準が高いのはなぜかと考えて氏家さんが出した結論。それは、きっと、京都に暮らす人たちがきちんとしたお茶の淹れかたをしっかり教育されて、あるいは教育されるまでもなく受け継いで、生活の一部として当然のようにきちんとお茶を淹れているからに違いない、ということでした。なるほど。
逆に、お茶やコーヒーの淹れかたがなってないと、一人前に見てもらえなかったり、もてなかったりして、その人の遺伝子や“ミーム”は淘汰されてしまったりするのかな……
京都で子々孫々まで繁栄するには、生活のすみずみまで、日々の普通のことをきっちりこなせないといけないのかもしれません。
今回、氏家さんからは、骨董品の焼き物の絵柄から発想するブランドとデザイナーの関係性とか、いろいろ目の覚めるようなお話を伺いました。
次回に続く、かもしれない。
*1 氏家さん:Webデザインや映像デザインの偉い人。ご本人は西洋画の先生になりたかったそうですが、西洋画を教えている氏家さんよりはウゴウゴルーガを作っている氏家さんのほうが説得力あると思います。
やぎぬまさんのコメント:
「味」なんてものは実に個人的なもので、普遍化は難しいんでしょうが、京都のまともな食い物はまともなイタリアンやフレンチ、中国料理などとも共通したものを持っているような気がします。
要するに大阪や東京のような田舎物相手の料理特有の味覚の「ブレ」が無いんじゃないですか?
京都で生まれた人や京都で長く生活している人たちにはその味覚の「ブレ」の無さ、あるいは「筋」みたいなものが通ってしまうんじゃないのかなあ。
自分たちの文化に自信の無い地方の食い物って絶対にマズイですよね。(どこ、とは言えないけど。) 東京や大阪はごった煮状態で「筋」が通ってないし。