The means justifies the ends
伊藤穣一の有名なマントラ "Deploy or die."。
Joi が TED で行ったスピーチの中で、「ネット前 (B.I.)」時代の前任者ニコラス・ネグロポンテの "Demo or die." にかわり、MIT Media Lab の「ネット後 (A.I.)」時代の新しいモットーとして提唱した。
(スピーチ全文がここで読めます。日本語訳もあり。)
「ネット後」時代のあらゆる物作りは、コンセプトや計画を考えただけでも、プロトタイプを一回こっきり動かしてデモしただけでもダメ。さっさとモノを実際の世界に配備して、晒して、フィードバックを見ながらどんどん実地でカイゼンとデプロイを繰り返していく者が改革を起こす、ということだ。
あらゆるモノがネットワークを介して世界中の人とつながるようになった今、モノにせよサービスにせよ、ネットワーク越しで起こる人々の反応や、その先で起こる人と人とのコミュニケーションや経済活動も含めた複雑系全体の価値が消費されるように変わってきた。
「ネット後」時代においては、人はモノやサービスそのものの提供価値を消費するのではなく、モノやサービスを通じて得られるネットワークの価値やコミュニケーションの価値を消費している、と言ってもいいかもしれない。
モノもサービスも、ネットワーク越しに人と絡み始めると、新しい価値を帯び、人はその新しい価値のためにモノとサービスを使うようになる。
「ネット前」時代でもその兆しはあった。
ソニーのベータマックスもビクターのVHSも、テレビ放送を家庭で録画して後から再生するクローズドな機械として開発された。
ところが、その機能を手に入れた人たちは、録画したテープを貸し借りしたりダビングしたテープを流通させることに価値を感じてしまい(もちろん、ほかの理由もあるけれど)、流通しているテープのタイトルや数がちょっとだけ多かったVHSがどんどん市場を食っていった。
より多くのノードを持つネットワークの方が価値を持ち、拡大し続けた、今で言うネットワーク外部性そのものだ。
そして、テープが流通する活動は外部経済だ。
ただ、「ネット前」時代で、物理的なテープが人の間でやりとりされる遅いネットワークだったので、その変化は10年近くかけてようやく効果が目に見えた。
「ネット後」時代のネットワークは光の速度で世界中に伝わるので、ものすごいスピードで淘汰が起こる。ネットサービスなんか数ヶ月で勝負がついてしまうこともよくある。
モノやサービスそのもの機能や価値は、賢い製品企画マンやMBAホルダーが計画して仕様書を書いて、巨額を投じて長い時間掛けて腕のいいエンジニアやSEが設計・開発すれば、かなり高い確率でヒットを打つことができた。
ところが、ネット越しにつながった人のリアクションや、その先の振る舞いなんて、まったく予測不可能だ。だから、とっとと作ったモノやサービスを世に晒して、人のネットワークにつながった状態にして、それによって起こる人の行動や反応の変化を測定しながらどんどん改良していくしかない。
Joiが「フューチャリストという言葉は嫌いだ。僕らは『ナウイスト』になろう」と言う所以だ。
この状況を見た巨大資本は、また勘違いをして、外部経済活動の元を支配しようとしたりする。電機メーカーが、外のネットワークでの闘いに負けないようにと、ネットワークで流通するコンテンツ流通の会社を買収したりしたのがそれだ。
でも、自由に情報とアテンションが流通するネットワークでは、コンテンツ流通会社を一つ押さえたところで外部経済を支配することはできない。
強いて言うならばネットワークそのものや、人とネットワークとの接点を全部押さえるぐらいしか勝ち目はない。そんな勝負を仕掛けられるのは世界中でもごく限られた一握りのトクベツな人たちだけだ。僕ら凡人はそれぞれの得意な持ち場でネットワークの上の立ち位置をしっかり確保していくしかない。
そんなわけで、ボクはこの Joi のマントラを120%支持する、いや、信奉する。
まず晒せ、勝負はそこからだ。
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